横浜ラグビー決戦前夜。早稲田でフランスの方と盛り上がる。

昨晩H寿司にて隣に座ったのが、朝日新聞の元政治部記者の方で、大学学部とも私の20年先輩だった。政治家の番記者は何をするか等、面白い話がたくさん聞けた。

それから日仏文化交流協会会長の女性他、マルセイユ在住のフランス人と話。震災のとき、支援に閖上まで来たそうである。今回も閖上に寄って来たとのこと。私はフランス語で「メルシーボクー」のオンパレード(笑)。

ラグビーの話をしたが、あまり興味がなく、良く知らなかったみたい。(T_T) 
でも、この店に来ると、本当に色々な方と知り合いになれて楽しい。
結局5時間飲んでいたので、巣鴨のカプセルに行く電車は山手線の終電だった。名刺を渡したので、メールを送って来るらしい。フランス語で来たら全く意味が分かりませんが(笑)。

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話が異様に盛り上がり、ぶんちゃんまで酒を飲んだので、寿司をあまり食べなかったことに後で気付いた。

久々の高速バスでのラグビー観戦

久々の高速バス。ウィラーのボーテという独立三列シートなのだが、これがなかなか機能満載、ゆったりして心地よい。

嬉しくて朝4時に目が覚めたせいもあるが(笑)、気持ちよく音楽聴いてたら2時間くらい熟睡してしまった。4170円は安いな。現在は那須高原で休憩。三連休初日、天気が良いので行楽客多し。3時にバスタ新宿到着予定。

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ただ、那須高原は子供達が小さかったころ、仙台の両親と合流し、夏休みに旅行に来ていた場所なので、少し感傷的になった。

いざ決戦。ラグビーテストマッチで横浜へ。

ラグビーテストマッチが、明日11/4に横浜の日産スタジアムで行われるので、約4ヶ月ぶりの上京。今回は新幹線が取れなかったので、久々の高速バス。まぁのんびりと寝ながら行けるのだから良いのだけれど。当然今晩は、タモさん行きつけの早稲田のすし屋である。


さあ行くぞ。待っておれ、横浜!! と意気込んで思い出したが、実は日産スタジアムに行くのは初めてではない。

15年前、2002年の日韓ワールドカップ、ブラジル対ドイツの決勝戦。2対0でブラジルが優勝した試合。バックスタンド中央最前列7万円の超プラチナチケットを大学のサークルの先輩から定価で譲り受け、観に行ったのだ。

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ピッチとほぼ同じ高さなので、300mm望遠レンズの一眼レフで撮ったこんな凄い写真がわんさかある。

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ロナウドロナウジーニョロベカル、カーンなど錚々たるメンバー。試合終了後のセレモニーの時、夜空から舞ってきた金色の紙吹雪がキラキラ輝いて美しかった。

その節はありがとうございました、T先輩。m(_ _)m。金払うのが遅れて一悶着起こし、すみませんでした(笑)。

この写真はお宝だな。ネガにたっぷり入っている。(^-^)

38年前の夏休み、盲腸になる。(退院後)

続きを書け!! という要望が多いので、当り障りのない話だけとりあえず書いておきます。(※R12指定です)

さて、ぼくの盲腸手術に立ち会った美しい看護師さんとの初めてのデートは渋谷の道玄坂近くの結構大きなパブ(これは今や死語ですかね?)だった。
その時はお互いの簡単な自己紹介や彼女の仕事の話、ぼくの大学のサークル仲間の笑えるエピソードとか、そんな話に終始した。
彼女はさっぱりとした明るい性格で、飲んで話をしても楽しかった。
病院で見た毅然とした雰囲気ではなく、普通の可愛らしい女性だった。

3時間程度だったかな、その時は。
次はぼくのホームグラウンドとも言うべき高田馬場で飲みましょうということになり、別れを告げた。

最初のデートから2週間後ぐらいだったろうか。
高田馬場駅の東口ロータリーから神田川方面に向かい歩いて1分。
サークルの仲間たちとしばしば訪れる2階にある居酒屋が2度目のデートの場所になった。
※店の名前がどうしても思い出せないが───。
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この写真の右側の奥にその居酒屋があった。

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そこは畳敷きの和風の店だった。
店内は広く、大きなテーブルが多数ある。
ぼくたちは長いテーブルの端っこに二人向かい合って座布団に座った。

8時頃に予約して呑み始めたと記憶している。
焼き鳥がメインで、他も和食系のつまみが殆ど。酒はビール、日本酒、ウイスキー、何でもござれである。ただ、当時はまだ焼酎が人気になる前だったはずなので、焼酎を飲んだ記憶はない。


彼女は結構酒が強かった。そして、むろん当時のぼくも。
日本酒をがんがん頼んだ気がする。
学生時代、ぼくは煙草を吸っていた。主にハイライトだったと思うが、それからマイルドセブンに変えたのだったか。

灰皿はテーブルの端にあった。
その灰皿に吸い終えた煙草をおいては、すぐに新しい煙草を口にくわえていた。

泥酔状態になりながらも、話は弾んだ。
11時近くになった頃だと思う。
ふっ、と匂いを嗅ぐと、何やら焦げ臭い。
でも、構わずに彼女との楽しい話をつづけた。
(何たって、酔っぱらいだからね)

しかしながら、その何かが焦げているような匂いは一層強くなった。
その時である。
「おい、そこ燃えてるぞ!!」と一つ離れたテーブルにいた隣の客が叫んだ。

よく見ると、私の左側に灰皿が落ちて、完全に消えてなかった煙草の火が座布団に燃え移り、微かながら炎が上がっていた。
「うわ!!」
と私も叫んだ。ちなみに彼女は気付かなかったみたいである。つまり、彼女も相当酔っていた。

すぐに店の従業員が来て、灰皿を取り除き、濡れタオルみたいなもので座布団を叩いた(と思う)。
※酔っぱらいだから、おぼろげな記憶だけどね。

まあ、無事に火は消し止められ、ボヤとは言えないほどのボヤで済んだ(笑)。

お店の人に「すみません」とぼくは言った。
「気を付けてください。怪我はないですか?」
と言われたと思う。

普通の人ならそこで帰るだろう。
ただし、ぼくはまだ帰りたくなかった。

何と言ってもぼくの下宿は下落合(正確には中落合1丁目12-1)である。
この店から歩いても30分程度。
終電がなくなったら彼女はどうするのだろう?

というわけで、ぼくらは何事もなかったようにその後も飲み続けた。零時を過ぎ終電はなくなった。彼女も「電車がないので帰ります」などという野暮なことは言わなかった。
ここまでくれば、暗黙の了解というやつである。

「ウチくる?」(中山ヒデか、俺は)
「うん」

泥酔したぼくらは、千鳥足で神田川を渡りぼくの下宿へ向かった。
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とまあ、ここまでで終わりにしておきます。
その後は皆様のご想像にお任せします。

結局、盲腸になったおかげで、ぼくは美しい看護師さんと出逢い、お付き合いするようになったのである。

38年前の夏の、最初は甘酸っぱい、でもその後(この数か月後の恐ろしくて書けない部分(笑))は苦い思い出話でした───。

1979年8月、38年前の夏休みに盲腸になる。(完結編)

まず最初にお詫びを。<(_ _)>

盲腸になったとき、ぼくは青山寮に住んでいたと思ったが、最後の電話の話を思い出すと、38年前の夏休みはすでに下落合で一人暮らしを始めた後だったことに気づいた。ただし、3月まで南青山寮に住んでいたので、夏休みは寮にもちょくちょく泊まりに行っていた。そこで、記憶がごっちゃになっていました。申し訳ありません。
実際は、配送センターが港区だったので青山寮から近く、夏休みで寮にも空き部屋があったので、バイト中は内緒で寮に泊まって、そこから通っていたのです(笑)。 
で、退院してから下落合の下宿に戻ったのでした。
それにさっき気づいた(笑)ので、前の文章も加筆修正しました。<(_ _)>

手術が終わりベッドに寝たままのぼくに、医者が「ほら、これが君の盲腸だよ」と切り取った後の生々しい内臓部分を見せてくれた。
まさか、そんなものを生で見せてくれることなど想像してなかったので、目を凝らして覗きこんだ。滲んだピンク色なのだが、とても気味の悪い臓器(?)だと思った。

その後、ぼくは手術台の上部分のマットと戸板のようなものに乗せられたまま、二階へ担ぎ上げられた。
今でも不思議だが、当時はそういうのが一般的だったのだろうか? ぼくが横たわったままの戸板(?)の隅を4人が抱え、階段を登り、二階へ持ちあげられたのである。

こんな経験した人、他にいるのだろうか?
小さい病院で、手術室が1階にあり、入院するベッドが2階の場合は、必ずこうだったのだろうか?

仰向けになっていたぼくは、時折斜めになったりするので不安になり横を見た。遥か下に1階のロビーが見えた。ここで転がったら、ぼくは1階に落っこちて叩きつけられ死ぬんじゃないか? とさえ思ったのだ。

心配は杞憂に終わり、何とか無事に2階まで上がり、事なきを得た。

夜中になると痛みが激しくなり、それは時間とともに増していった。耐えられなくなったぼくは、ナースコールボタンを押した。
先ほどの綺麗な看護師さんがやって来た。
「痛みがひどいんですけど」
「まあ、仕方ないですね。我慢してください」
看護師さんは、ぼくの痛みなど他人事のように言い放ち、すぐに戻って行った。

入院期間は一週間ほどだったろうか。
最初の頃は、夜中にトイレに行くだけでも激痛が走り大変だった。
三日目くらいにサークルの連中が見舞いに来てくれた。盲腸になると、笑うと痛いことを知っていた先輩が、わざと「ギャグ漫画」の単行本を持ってきた。

ちょっとだけ読んだら見事に笑える話で激痛が走ったため、それからは読むのを止めた。

綺麗な看護師さんと仲良くなり、色々な話をした。
退院して下宿に帰ってから、その看護師さんのことを思い出したぼくは手紙を書いた。
簡単に言えば、こんな内容である。

色々とお世話になり、ありがとうございました。お陰様で無事です。今度渋谷あたりでお酒でも飲みませんか。よかったらお電話ください。

当時、2階に住んでいたぼくの下宿には当然の如く部屋に電話などない。
1階に共有の電話があり、その呼び出し音がなると、近くの部屋で司法試験の勉強をしていた大学院生(?)が電話を取って2階の住人も呼びに来るというスタイルである。

彼は大家さんから月にいくらかもらっていたか、下宿代を少し安くしてもらっていたんだろう。ボランティアでそんなことをやる酔狂な人間がいるわけはないので。

ぼくはその手紙を書いた後、電話かかって来ないかなあ、と首を長くして待っていた。夏休みとは言っても、昼はサークルの部室で一人で歌を唄っていた(笑)ので、夕方、下宿に帰ってからであるが。

さて、電話はかかって来たか?

これが見事にかかって来たんですね。(*^^*)

夜、テレビを見ていると階段を駆け足で登って来る音がする。
ぼくの部屋のドアがノックされた。
「〇〇さん、電話です」
彼の呼びかけに「はあい」と返事をして、1階に降りて行った。

でも、この時点では誰からの電話か確かではない。ただし、ぼく宛に電話がかかって来るのは、仙台の実家の両親からたまにあるくらいなので(ひょっとして!!と)期待した。

受話器を手に取り「もしもし」と言うと女性の声が。
「Kです。手紙ありがとうございました」
※ちなみに、その美しい看護師さんの苗字はKである。
「ああ、はい」
「まさか手紙なんてもらうと思わなかったのでびっくりしました。〇〇さんからお誘いの手紙が来たと言ったら、周りから冷やかされました。お酒、大丈夫です」
彼女の発した言葉に、あまりの嬉しさで声も手も少し震えた。

とまあ、そんなわけでぼくは38年前の夏休みに───。
毛を剃ってくれて、なおかつ自分の大事なものを見た、美しい看護師さんとデートをすることになったのである(笑)。

この後も彼女と色々な面白い話がある(高田馬場の呑み屋で、ぼやを起こしかけた話とか)のだが、ここまでにしておきます。

それはまたの機会に。
とりあえず、盲腸編はこれにて完結です。
お粗末様でした。<(_ _)>

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ここはぼくが住んでいた下落合の下宿に向かう途中の坂道。ビルの隙間から真正面遠くに見えるのは新宿の高層ビル群。夜になると夜景が綺麗なので、時折、こんな感じで後ろ向きに歩いて上ってました(笑)。

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2階建てのぼろいアパートは取り壊され、今ではこんなマンションになっていた。(2014年秋に撮影)

1979年8月、38年前の夏休みに盲腸になる。(その2)

恵比寿の駅から歩いて5分。後で分かったが、3月まで住んでいた南青山の寮から歩いても20分ほどで行ける小さな2階建ての病院だった。
 
新橋の病院でもらった紹介状を見せると、電話で話が行っていたのか、すぐに診療してくれた。どういう診断をしたのか、今となっては記憶はおぼろげだ。レントゲンとか超音波(当時あったのだろうか)とか撮ったのだったか?
 
兎に角、その医者の下した診断では“急性虫垂炎”。
そして、「緊急手術しないと危ない」と言われた記憶だけはある。
盲腸で死んでしまう人間がどれだけいるのか知らないが、その言葉を聞いたときは、かなり不安になった。
 
貧乏学生だから、現金もそれほど持っているわけはない。
携帯電話など影も形もない時代である。病院のピンク電話から、仙台にいる親に電話を掛けたはずだ。最終的にお金がいくらかかり、いつ払ったのかも覚えてないが、その夕方すぐに手術をすることになった。
 
手術となれば、当然その後は入院である。
着替えなども必要だと言われた。
青山寮に一時的に戻る時間もないと言われたので、寮にも電話を掛けた。
夏休み中だから寮に残っている学生は少ない。多くが地方に帰省してしまっているので、とりあえず管理人に知らせたのだったか。
※この部分も思い出しました。
下落合の下宿に知り合いなどいないので、青山寮に住んでいる友人に電話を掛けたのだった。そして彼が、どこかで着替えなどを買って持ってきてくれたのだ。あの時はありがとうね。岡山出身のK君。
 
手術が始まった。
手術室は1階。診察台で、上は下着だけ、下はパンツ1枚で仰向けになった。まずは、何故か胃の辺りに仕切りのようなものをあてがわれた。つまり、今何が行われているのか見えないようにするためである。それから背中に麻酔を打たれた。全身麻酔ではないので、意識はしっかりしている。
 
さあ、問題はそこからだ。
盲腸の手術は腹部を切開するので、余計なものが内部に入ってはいけない。下半身で邪魔なものを取り除かなければならない。そう、陰毛を剃るのである。当然、その前にパンツは脱がされる。というか看護婦さん(現在では看護師さんという名称だが)が脱がしてくれる。
 
肝心なのがこの場面である。ここからは表現に気を遣う()
盲腸になると下の毛を剃られるというのは、当時よく男子の間では下ネタの笑い話となっていた。つまり、パンツを脱がされ毛を剃られる=看護婦さんに〇〇〇を披露する。もし、綺麗な看護婦さんだったら、どうにかなってしまわないのか?
という三段論法である。ホントか?
最近あまり盲腸の話とか聞かないが、今の若い男の子はそんなネタでは笑わないんですかね??
※ここからは敢えて看護婦さんと書きます。ご了承下さい。
 
ぼくは普通の看護婦さんが来ることを願った。
ところがところが、世の中というのは恐ろしいものである。こういう時に限って、若くてきれいな、ぼくと年の変わらない看護婦さんが見事に現れるのだ。
「痛くないから大丈夫だよ」
その看護婦さんは、チャーミングな笑顔をぼくに向け、そんな言葉を発したような気がする。
 
ぼくは懸命に別のことを考えようと集中した。
天井をじっと見つめる。
ああ、シミがたくさん付着した汚い天井だな。
無理にそんなことを考えても、今見た綺麗な看護婦さんの顔がなおさら頭から離れなくなるだけである。
 
よくよく考えれば、下半身麻酔を打たれているのだから、盲腸手術で男の沽券にかかわるような恥ずかしい事態は起こらないことに後で気づくが、その時は真剣である。
 
じょりじょりと毛を剃る音が聞こえてくる。
毛を剃り終わると次はメスが入れられる。何となく体が切られているような音が聞こえイメージは湧くのだが、当然痛みは全くない。
 
手術の時間はどれくらいかかっただろうか。


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(つづく)

日曜日はジャズフェスとUruさんのライブ。

2年前に偶然Youtubeで発見し、その優しく透明感ある歌声の虜になった。
カバーがアップされる度にYoutubeで聴きながらCDにも落とし、車の中でも聴いて東北中を走り回っていた。
昨年九月に念願のメジャーデビューを果たし、最初のライブは東京グローブ座
東京まで聴きに行った。生で聴く彼女の歌声は心に染み入った。

その彼女の仙台での初のライブ。
CD購入者限定先行予約を申し込んだ。
500人という小さなハコでもあり、難しいかと思ったが見事に当選。
その後の一般発売では当然即日完売。
そのチケットが先日届いた。
コンビニで発券すると、何と中央最前列!! 
しかも真正面の目の前の席である。
驚きと同時に胸が震えた。
こんな席は高校時代のキャンディーズ以来(笑)。
日曜日はジャズフェスを回った後、最後に彼女の歌声聴く。
楽しみだ。ずっと応援してきた甲斐があったというものだ。
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