【絶対にあきらめない銚子】───コロナ過のGW中、心温まる笑い話───

───コロナ過のGW中、心温まる笑い話───(その1)
【絶対にあきらめない銚子】
───犬吠駅から銚子駅に戻る銚子電鉄の車内アナウンス。
【まもなくぅ、終点の、絶対にあきらめない銚子、絶対にあきらめない銚子に到着いたします。コロナ禍のなか、皆さまも健康で過ごされますよう、銚子電鉄社員一同、祈念しております。まもなく、絶対にあきらめない銚子に到着いたします。本日のご利用ありがとうございました】 
いやもう、車内は大爆笑。廃線にしないために、ぬれ煎餅を開発するは、エンタメ性を持たせるようユニークな駅名に改称するやら、涙ぐましい自主再建策、経営努力を継続中の銚子電鉄です。それでも赤字みたいで、いつ廃線になるかわからないというTV報道を見て、応援すべく、銚子電鉄に乗ってみた───。
との大学の先輩から送られてきたラインの文章と写真。
笑わせてもらった。
仙台から銚子電鉄に乗りに行くのは大変だが、いつかは、銚子電鉄に乗ろう。コロナに負けるな!! 銚子電鉄

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絶対にあきらめない銚子

還暦を迎えて 新たなはじめの一歩を踏み出す


2018年2月2日、ついに還暦を迎えた。
何故か、高校のときぐらいから、50歳ぐらいで死ぬつもりだった。それ以上生きていたって楽しいことなどないだろうと思っていたのだ。

ただ老いさらばえていく。
そんな人生に何の価値、何の楽しみがあるのだろう。子どもが生まれたら、息子がきちんと就職し、娘は結婚する。そこまで見届ければ充分だと思っていた。

それまでにじぶんのやりたいことをやる。
仕事も遊びも趣味も、やるだけやって人生を終える。そんな生き方が理想だと思っていた。その思いは、結婚して娘も息子も生まれた30代になっても変わらなかった。

その私が50歳どころか、60歳になってしまった。
この10年間、簡単には言い表せないほど色々なことがあった。全く予想しない人生の転換だった。普通の人たち(この概念自体は曖昧で、何が普通かと問われれば正確に返答できないけれど)と違う歩み方をしたと思う。誰も経験できないようなことも数多くした。それ故に個人的には充分満足しており、やりきった感はある。

それが良かったのか悪かったのか、今は分からない。
朝井リョウ君の小説「武道館」のなかにこんな台詞がある。
「正しい選択なんてこの世にない。たぶん、正しかった選択しか、ないんだよ」

そうなのだ。
人生が一度きりのものである以上、右へ行くか、左へ行くか選択肢は常にひとつ。後戻りはできない。選んだ道が正しかったかどうかは、自分のその後の生き方で決まる。でも実際には、本当に正しい道を選んだかなんて、誰にも分からない。今の自分に後悔しないためには、正しい生き方を選んだと思うしかないのだ。

キャンディーズが活躍していた頃と同じ時期、ラジオの深夜放送「落合恵子のセイヤング」を聴いていた高校時代の私の心の中に今でも刻まれている言葉がある。

或るリスナーから送られてきた手紙の文章である。
手紙の内容は、田舎から東京に一人出てきたものの、寂しくて、辛くて、哀しい毎日を送っているというものだった。でも、その手紙の最後の台詞がこうだった。
「誰が選んだ道じゃない。自分で選んだ道だもの」
結果的に苦しい選択をしたとしても、それは飽くまで自分で選び取った道なのだ。

東京にいれば、全く違った生活を送っていただろう。
でも、それが自分にとって良かったかは分からない。それでも、二人の子供に対して申し訳ないという気持ちはずっと抱き続けるとは思うし、会いたいという思いは少なからずある。

50歳を過ぎ、60歳を迎えても楽しいことはまだまだあった。
来年のラグビーワールドカップ。再来年の東京オリンピック。こんなすごいものを生で日本で見られるとは思っていなかった。

4年に一度、私の楽しみがある以上、ずっと生き続けるのかもしれない。

誰が選んだ道じゃない。自分で選んだ道なのだ───。
そう信じて私は一人で生きていく。多くの素晴らしい友人たちに囲まれながら。

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楳図かずおさんが電車の中で描いてくれたマンガ

楳図かずおさんが国際的な漫画賞を受賞!!

フランス西部のアングレームで開かれた「第45回アングレーム国際漫画フェスティバル」(25~28日)で、漫画家の楳図かずおさん(81)の作品「わたしは真悟」が、永久に残すべきだと認められた漫画に与えられる「遺産賞」を受賞した。同フェスティバルは欧州最大級の漫画祭で、日本人の同賞受賞は、水木しげるさん、上村一夫さんに次いで3人目。(毎日新聞)

という朗報が届いたので、35年前に電車の中で、楳図かずおさんが私のために描いてくれた漫画のエピソードを再掲載させていただきます。

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東京時代、様々な方と知り合ったり、或いは記念として保存しているものがあり、めったに見られない珍しいものも多々あるので、それをご披露していこうと思います。
ご覧になって楽しんでいただければ幸いです。
私は大学を卒業して社会人になったとき、それまで住んでいた下落合から中央線の国分寺駅にあるアパートに引っ越した。
社会人になるにあたり、一つの区切りとして二部屋あるところに住みたいと思った。
仕事で疲れて帰宅し部屋の電気を点けたとき、そこだけが私の居所ではなく、襖(或いはドア)を開ければもう一つ別の世界がある。
そういった心の余裕がないと、毎日の生活にストレスが溜まるのではないかと考えたのだ。
その条件に合う部屋を春休み期間中探し続けると、家賃の関係からどんどん遠いところにならざるを得なかった。中央線、西武新宿線西武池袋線などの沿線を探し回り、結局国分寺駅南口から徒歩10分のところにようやく適当なアパートが見つかった。
家賃は3万5千円。
その他に電気、ガス、水道、電話などの光熱費がかかる。二階建てで玄関が直接外に面している建物だった。そのアパートから神保町にある会社まで中央線に乗って三鷹まで。そこで地下鉄東西線に乗り換えて竹橋まで。ドアツードアで会社まで約1時間だ。
大学時代からの行きつけの呑み屋がある高田馬場駅も通るので、会社からの帰りに、時折、途中下車して呑み屋に立ち寄った。
入社して半年ほど経った昭和58年10月28日のことだ。
高田馬場で酒を呑んで、駅から三鷹行きの地下鉄に乗った。ドアが閉まると私は辺りを見回した。
その頃テレビでよく見かける、もじゃもじゃ頭の漫画家に似た人がドアの横に立っていた。
似ている。というより間違いなく本人だ。
周りの人も気付いたらしく、ひそひそ声が聞こえた。私は酔っていた勢いもあり、近寄って気軽に話しかけた。
楳図かずおさんですよね?」
「あ、はい。そうです」と彼は答えた。
私は気が大きくなっていたので、周囲の視線など全く気にせずに、「サインしてもらえますか」と仕事用の手帳を彼に差し出した。
混雑した電車の中である。しかも立ったままである。
それなのに彼は快く応じてくれた。それどころか、当時『ビッグコミックスピリッツ』に連載していた「わたしは真悟」を毎週読んでいるという話を振ると、漫画まで描いてくれた。
さらに「お名前は?」と楳図さんが訊くので、私が名乗ると、名前まで入れてくれた。
それがこれである。
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これは天地左右が15cm×10cmほどのビジネス手帳に書いてくれたものなので、実物はかなり小さい。
揺れる電車の中で、よくこれだけ上手に書けるものだと感心する。しかも同乗していたのは15分程度なので、これを書くのに要した時間はわずか5分ほど。さすがプロの漫画家である。

これ、今見て思ったのだけれど、”my name is shingo.”と書かれているが、「わたしは真吾」の「真吾」ではなく、有名なまことちゃんの絵ですね。友人からも指摘を受けました。「ぐわし」という台詞も書かれているし。何故、まことちゃんを描いてくれたのだろう?
調子に乗った私は、その後も楳図さんと色々な話をした。
連載中の「わたしは真吾」は今後どういう展開になっていくのか? とか、昔読んだ「漂流教室」の話とか、梅図さんの漫画を初めて読んだのは小学校低学年の時で、そのときの「へび少女」が怖くて眠れなくなった話とか。
WIKIで確認して思い出しました。真昼間に読んだのに、夜寝る前に思い出して怖くて眠れなくなったのは『週刊少女フレンド』に連載されていた「へび少女」でした。何故に男の子の私が『少女フレンド』を読んだのだろう? と疑問に思いましたが、おそらく姉が買ったものだと思われます。
 周囲の人たちは馴れ馴れしく話す私をうらやましそうに見ていた。こんなときは、羞恥心など欠片もない酔っぱらいの勝ちである。
楳図さんはまるで、昔からの友人のように気さくに受け答えしてくれた。
「次は吉祥寺」というアナウンスが流れると「あ、私は次で降りますので」と彼が言った。
私は「これからも続きを楽しみにしています」と笑顔で答えた。
吉祥寺駅に着いてドアが開くと、ホームに降り立った楳図さんは、まだ若輩者の私に向かって深々と頭を下げ、「それでは失礼します」と言って歩いて行った。
なんとも腰の低い有名人だった。
テレビで見せるお茶らけた感じはさらさらなく、とても真面目な雰囲気の方だった。あとで知ったのだが、楳図さんの事務所は当時高田馬場にあり、自宅が吉祥寺とのことだった。
これは永久保存版として、実物の手帳と、それを無くしても大丈夫なようにその拡大コピー、さらに画像データとして保存している。
あれから35年経ち、楳図さんは現在81歳。
1995年に完結した『14歳』以後、腱鞘炎などといった理由で漫画は休筆中とのことだが、また楽しい、或いは背筋がゾクゾクするようなホラー漫画を描いてほしいものである。
ところで、この原画の価値はどのくらいするものだろうか?
今度「なんでも鑑定団」に出してみようかと思っている私なので®

去年の紅白を見て思ったこと(まとめ)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。<(_ _)>

去年の紅白を見て思ったこと(まとめ)

1、嵐の櫻井君の顔の異常なむくみが気になった件
2、安室ちゃんってもう40歳なのかあ、とあらためて時の流れを感じた件
3、パフュームの歌ったビルの夜景が美しすぎて、あれはどこのビル? 夜景マニアの私としては一度で良いからあそこで夜景を見たいと思った件⇒セルリアンタワー東急ホテル(37階建て)の屋上ヘリポートと判明。
4、欅坂46がウッチャンとコラボして二度も「不協和音」を踊り、さらにそのラストで3人が倒れたというハプニングを見逃してしまった件
5、「ひよっこ」のお父ちゃんとお母ちゃんがサプライズ出演したとき、沢村一樹が「みねこー」とウッチャンに抱きつくというボケをかまし、相変わらず沢村一樹は面白いと爆笑した件
6、「ひよっこ」特別篇を見て、1年をしみじみ振り返るとともに、桑田佳祐のライブ会場に有働アナがいて驚いた件
7、20年来のファンである松たか子が出てきたとき、さほど感動を覚えず、今でも部屋に貼ってある若かりし可愛い頃の彼女のポスターと見比べ、私はもう彼女のファンではないかもしれない、と気付いて愕然とした件
8、その松たか子が出てきたとき、画面には高橋一生有村架純吉岡里帆が同時に写り、ドラマ「カルテット」の3人とドラマ「いつ恋」の二人じゃん!! と何故かうれしくなった件
9、トリの「ゆず」が「栄光の架橋」を歌っている時、バックにアテネオリンピックの鉄棒で富田選手の着地映像が流れ、「栄光への架け橋だ!!」と感動の瞬間を思い出し叫んで懐かしんでいたのに、アテネだけでなく、北京、ロンドン、リオまで映像が流れ、オリンピックオタクの私ではあるが、ちょっと複雑な気持ちになった件
10、最後に双眼鏡を持った集団が出て来てカウントをし始めた時、このデジタル社会においてNHKは何故に超アナログな野鳥の会がいつまでも好きなのか謎だ、と思った件

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男子ゴハン

なにか書きたいなあと思っていたら、昔のブログに載せたブクログレビューを発見したので再掲載。

だいぶ前(この本自体が1988年12月27日発行の初版となっているので、おそらく翌年あたり)神保町の某古書店の店頭に平積みになっているのが目に留まり、ジャケットと中の写真の美しさと価格(定価2200円が300円だったかな)に魅かれ、思わず買ってしまった料理本
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写真が美しくて、どの料理も美味しそう。よだれが出てきます。メインは作者がミラノに住んでいた頃に仕入れた知識なので、イタリア料理。パスタ、ピッツア、燻製、パエリア(スペイン料理ですが)、パン等々。なかに、特製ボローニャソースの作り方が書いてあり、ボロネーゼ好きの私はすかさず挑戦。このレシピに違わず作ったら至高の味でした。
豚挽肉・牛挽肉・生ソーセージ・鶏レバー・ベーコン・セロリなど、とにかく素材の種類が豊富であればあるほど、深い味わいのソースになります。
中の写真見ていたら、久々に作りたくなりました。

最近は忙しくてあまり料理ができなくなったけれど、東京在住時、子供たちが小さかった頃は土日になると私が家族の料理番。そのへんの中華料理店などには負けない麻婆豆腐やこだわりのカレーとかを作り、家族に食べさせていました。

麻婆豆腐なんて、あまりに美味しく、子供たちからのリクエストも頻繁にあったので平日にも作っていました。調子に乗って毎日のように作ったら、最初は、おいしい!!おいしい!!と喜んでいた二人が「えー、今日も麻婆豆腐??」と言いはじめ、「もう麻婆豆腐は嫌だ!!」となり、その後は一切麻婆豆腐を受け付けない体になってしまったようです……。

すぐ一つのコトに熱中し過ぎてしまうのも考えものだなあ、と。
こんな古本でもアマゾンで買えるんです、すごい時代になりました。