高校野球100年、夏の甲子園大会の想い出

夏の高校野球が好きだ。
あの炎天下の中で懸命にプレーする高校球児の姿は胸を打つ。
私にその印象を最初に焼き付けたのは、
忘れもしない、小学6年生の時のあの試合だ。
 
私が旭ヶ丘小学校6年生だった年の夏、東北は異常に燃えた。
夏の高校野球、甲子園での三沢高校の快進撃だ。
ロシア人とのハーフのピッチャー太田幸二選手が孤軍奮闘、獅子奮迅の活躍を見せ、
一回戦から準決勝まですべて1点差で勝利を治め、決勝まで勝ち上がった。
相手は松山商業
 
この決勝戦は、いまだに語り継がれるほどの歴史に残るすさまじい戦いで、
チャンスとピンチが交互に訪れる緊迫した展開が続き、
互いに点を許さず、延長18回、0対0で引き分け。翌日再試合となった。
 
さすがに翌日の再試合では、怪腕太田幸二も刀折れ、矢も尽きた。
初回に2点を奪われ、4対2で松山商業が優勝する。
殆ど一人ですべての試合を投げ抜いて、
最後の戦いに敗れた太田幸二に対し、
松山商業には松山、井上という二人の優秀なピッチャーがいた。
孤軍奮闘し敗れた悲劇のヒーローは、
この後、最初の甲子園アイドルとなる。
 
この戦いは、仙台市内でもものすごい事態を引き起こした。
私の記憶では、
試合中に家の前の道路からは車の走る音が全く聞こえてこなかった。
東北各地の視聴率は何%だったのだろう。
天下の紅白歌合戦を凌ぐほどになっていたのではないだろうか。
 
みんな祈るような思いで試合を見ていたに違いない。
試合が終わり、母親と一緒にスーパーに買い物に出かけようとすると
あちらこちらの家から人がぞろぞろと出てきた。
スーパーではその試合の話で持ちきりだったのを覚えている。
 
宮城県では、新聞は朝日や読売ではなく、
県紙と呼ばれる「河北新報」が一番読まれている。
その新聞の題字下には
白河以北ひと山百文と揶揄された土地に文化を起こすべく───」
というようなことが書かれていたが、
甲子園の深紅の大優勝旗もそれまで白河の関を越えたことはなかった。
 
その後もチャンスは何度かあった。
昭和46年(1971年)、小さな大投手と呼ばれ、
水島新司の漫画「ドカベン」の里中投手のモデルにもなった
福島県立盤城高校、田村投手のとき。
彼は体こそ大きくなかったが、
切れの良い速球と正確なコントロール、そして頭脳的な投球で
勝戦まで1点も得点を許さなかったが、
勝戦で奪われた僅か1点のせいで、敗者、準優勝になった。
あのときも打線にもう少し力があったなら・・・・・・。
 
さらには、名将武田監督の下、好投手大越を擁し、
打線も迫力があった平成元年(1989年)の仙台育英高校
下馬評も高く、優勝候補の一角にも挙げられ、
決勝まで勝ち進んだが、最後は帝京高校吉岡の前に涙を呑んだ。
 
盤城高校のときは仙台の実家で、仙台育英のときは、
私はすでに東京で仕事をしており営業の最中だったので、
銀座ソニービルのテレビの前で応援していたが、
ともに願いは叶わなかった。
 
特に、帝京に負けて準優勝に終わった表彰式で、
大越君が誰に憚ることなく大粒の涙を流していた映像には
私も思わず目が潤んだものだ。
 
深紅の大優勝旗白河の関を越えるには、
この全国的にも話題となった昭和44年の三沢高校の活躍から
結局35年かかることになる。
ただし白河の関どころか、津軽海峡も一気に越えてしまい、
遥か北海道の地にまで飛んで行ってしまった。
2004年の駒大苫小牧の優勝である。
 
だから、未だに東北に深紅の優勝旗は来ていないという悲しい現実がある。
 
さて、今年の東北勢はどこまで頑張ってくれるだろうか。
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