日航ジャンボ機墜落から30年───

日航ジャンボ機墜落―朝日新聞24時』朝日新聞社発行 (199008月発売)
イメージ 1

























1985812日、日本航空123便ジャンボ機は524人を乗せて群馬県の山中に墜落した。それは新聞社にとっても、以後数十日間続く苛酷なドラマの始まりであった。」と裏表紙には書かれている。
 
あの事故からちょうど30年経ったのですね。
川上さんでしたか、救助された女の子は。今、どうしているのでしょう。
幸せな毎日を送っていることを願ってやみません。
 
この本が発行されたのは198511月。事故から三ヶ月後。
そのときにこれを読んだら生々しい記憶が蘇ってきただろう。

だが私の手元にあるのは、その後文庫化された1990年発行のもの。
事故から5年経っている。
それでも、書店で見つけて読みたいと思ったのは、
毎年お盆近くの812日になると、まだその事件にニュース性があり
「あれから何年経ちました」
とテレビで慰霊祭の様子などが報道されていたからに違いない。
5年如きで風化するような事故ではなかったのだ。
 
この、お盆休みの夜に突然飛び込んできた事故。
当時、絶対安全と保証されていたジャンボジェット機
消えた? 何故に? 何処に? 
本文にあるように、まず墜落自体が信じられなかったようだ。
つぎに何処に落ちたのかが分からなかった。
だが、事故の全容が明らかになるにつれ、皆の背に戦慄が走る。
524人絶望。生存可能性なし。
それでも、僅かの奇跡を信じて懸命に捜索する自衛隊
マスコミの人間も含めたこの頑張りのおかげで、
奇跡は起こり、四人が救出された。
 
この四人を救出する過程、そして、亡くなった方々の思い。
読んでいて涙が止まらなくなったのを覚えている。
特に、墜落することを確信した乗客が、
自らの死を受け入れざるを得なくなった時、
残りの数十分間、無念さと恐怖にさいなまれながら、
何を思い、何をしようとしたか。
 
皆が、残される家族のことを思った。
妻や夫や親や子供に向けて、短い時間の中で遺書を懸命に書き綴ろうとした。
その光景を頭に浮かべれば、涙があふれ出るのも当然だろう。
 
もっとも涙が止まらなかった、
二人の方が手帳に書いた遺書をここに綴って残しておきたい。
 
けれど、これを読み終えたとき、
奢った言い方かもしれないが、ただ悲しみに暮れるのではなく、
「この人たちの分も頑張らなければ」と前向きな思いを抱いたのを
四半世紀を経た今でも、しっかり覚えている。
 
Kさんから──妻慶子さん、長女真理子さん 長男津慶さん
 次女知代子さんに向けて
マリコ 津慶 知代子 どうか仲良く がんばって 
ママをたすけてください
パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない 
今五分たった もう飛行機には乗りたくない 
どうか神様 たすけて下さい
きのうみんなと 食事したのは 最后とは
何か機内で 爆発したような形で 煙が出て 降下しだした
どこえどうなるのか
津慶しっかり たのんだぞ
ママ こんな事になるとは残念だ さようなら
子供達の事をよろしくたのむ
今六時半だ 飛行機は まわりながら 急速に降下中だ
本当に今迄は 幸せな人生だった と感謝している
 
M圭市さんから──妻知子さん 長男哲也ちゃん(二つ)に向けて
知子 哲也(両親を)たのむ 圭市
突然 ドカンといってマスクがおりた
ドカンといて降下はじめる
しっかり生きろ
哲也 立派になれ
(原文まま)
 
2才の息子さんに向けて送った最後の言葉。
「哲也 立派になれ」
圭市さん、無念だったろうな。息子さんの成長を見たかっただろうな。
それを思うと・・・・・・。
 
この事故で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
是非、多くの方々に読んで頂きたい本です。