1977年3月30日─あのとき世界は(仙台最後の日)

2016/03/30 22:45 地域の魅力 , 暮らし , 旅行・祭り
「あのとき世界は」などと書いたのは、広告で言えば似非キャッチコピーみたいなもので、実際の話とは全く関係ありません(笑)。 申しわけない。<(_ _)>
遥か39年前の今日。
1977年3月30日は、私が大学に受かり、4月1日に行われる入学式に出席するため、南青山の学生寮に上京した日である。
忘れもしない。
夢と希望に胸を膨らませ、特急やまびこ(当時はまだ東北新幹線が開通していない)に乗り、上野駅まで4時間以上。そこから地下鉄銀座線に乗り、表参道の駅で降りる。
何と言っても、天下の“表参道”である。
青山通り原宿駅からの表参道の交差点。地上に出ると厳粛な佇まいの大きな石灯籠が目に飛び込んできたのが印象的だった。
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表参道交差点から寮のある麻布方向の風景。39年前もすでにこんな感じだった。
その数年前に、当時の若者たちの青春の生きざまを描いたドラマ「あこがれ共同隊」の舞台にもなった原宿・表参道である。
註:「あこがれ共同隊」
TBS系列で1975年6月6日から9月26日まで、金曜日夜8時から1時間枠で放送されたテレビドラマ。当時人気絶頂のアイドルだった郷ひろみ西城秀樹桜田淳子の3人が共演して話題となった。番組の冒頭では、郷ひろみ高村光太郎の「天文学の話」という詩の一部を朗読した。(WIKIより引用)
吉田拓郎が作曲し、山田パンダが唄った「風の街」という主題歌もヒットした。
“道のむこうで手を振ったー”で始まり、
“表参道 原宿は なつかしすぎる友達や 
人に言えない悲しみすら 風が運んでしまう街”
という歌詞で、私は40年以上経った今でもそらで歌える。
私と同世代の方なら覚えている人もいるのではなかろうか。
その憧れの街“表参道”で大学生活をスタートするわけである。 
イメージ 2表参道の歩道橋から原宿駅方向を望む。 
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 私が住んでいた頃は青山の超高級セレブ御用達のスーパー「紀伊国屋」があった場所。紀伊国屋は、数年前に青山通りの赤坂方面に移転した。レジが二階にあり、そこでたまに私もパンなどを買ったりするのだが、前後は、と見るとスーパーのかごに溢れんばかりの商品を乗せたご婦人方ばかりだった。私の勘定は数百円なのだが、聞こえてくる彼女達の支払額は殆どが1万円以上、なかには2~3万円などというのもあった。
 駅から歩いて3分、“南青山六丁目”という東京のど真ん中というか、日本の中でも超一等地の高級住宅街にその学生寮は建っていた。
高級マンションや、いったい誰が住んでいるのだろう? と思うような広大な屋敷が建ち並ぶ一角にその寮はあった。ただし、その趣は港区南青山六丁目という地名には全くそぐわない。戦後すぐに建てられたので、築30年以上経過したおんぼろの三階建てで、大きな地震など来たらすぐに倒れてしまうのでないかと思われるような代物だった。
私は、建物などはどうでもよかった。
テレビドラマの影響もあって、こんなすごい場所に住めるのだという高揚感だけがあった。相部屋で、入ると右側に二段ベッド。奥の窓に向かって机が二つ並んでおり、広さは三畳程度。それでも充分だった。 
イメージ 4 青山通り(国道246)と骨董通りの交差点付近から渋谷方面を望む。左側にあるドトールコーヒーは、父親が仕事で上京したときに入った記憶があるので、私が学生時代にできたと思う。この写真は3年前の5月に撮影したもので、いまだにあるということは全国のドトールのなかでも、かなりの老舗店になるのではないだろうか。信号の先の左側には青山学院大学がある。
それとオフコース小田和正さんのファンクラブカフェ「Far East Cafe」も青山学院の手前を左に曲がった道路にある。骨董通りは、歩くと見事に高価な陶器などが置かれた骨董品店が並び、初めて通りを歩いたときは、「何故にこんなに骨董品屋さんばかりあるのだろう?」と不思議に思ったものだ。ここまで寮から歩いて5分ほど。こんなところに住んでいるのだから、地方から出てきた若者が有頂天になるのも無理はない。
イメージ 5表参道を交差点からを原宿駅方向に向かって2分ほどのところにある有名なオープンカフェ「アニバーサリーカフェ」。先日終了したフジテレビの月9ドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の第三話で、小夏ちゃんとハルタ君がお茶していた場所がここです。
何故に私はこんなことに詳しいのでしょう??(笑) 
イメージ 6これは表参道ヒルズビルの中。殆どが斜面になっている。不思議な建物である。私が学生時代は、小さなブティックやアクセサリー店が数多く存在した”同潤会青山アパート”という多くの棟から構成された古い建物があり、その跡地に建てられたのは有名な話なので、みなさんもご存じだろう。
註:同潤会青山アパート(調べ直したので追記しました)
同潤会青山アパートは、かつて東京・表参道にあった共同住宅である。
大正から昭和初期にかけて16ヶ所余りで建設された同潤会アパートのひとつ。2003年に解体され、跡地には2006年に複合施設「表参道ヒルズ」が建設された。
終戦後、同潤会アパートはそれまでの所有・管理者だった同潤会から東京都に引き継がれ、さらに1950年(昭和25年)になると各住民に払い下げられた。個人の所有となったアパートの部屋は、1960年代以降、原宿・表参道地区がファッションの中心として発展するとともにブティックやギャラリーとしても使用されるようになった。
(以上WIKIより部分引用) 
話が飛び飛びになるが、ちなみに青山寮の家賃は8000円であり、当時としても青山という超一等地にしては格安だった。食堂があったので、それに朝晩の食事をつけても22,000円。初めは食事付きにしていたのだが、すぐに、朝は9時過ぎに起床、帰宅は毎日10時過ぎというような奔放な生活になり、朝晩とも食堂が空いている時間に間に合わなくなったので、食事なしの8000円に変更した。
生活に必要な物は、すでに引越し屋さんに依頼して運ばれており、部屋に入った私は、それらの荷物をほどき始めた。
話は変わるが、実は前日の29日は、高校の友人たちと誰かの家で徹夜麻雀をしていた(笑)。
野球部の仲間4人と“二抜け”で夜の八時頃から翌朝の六時頃まで打ち続けた。みんな浪人生である。当時の文理(今でもあるのでしょうか?)に通う仲間でもあった。5人のうち4人は大学に受かり、4人とも東京の大学に進学することになったので、お別れ会と壮行会の意味も兼ねていた。医学部志望の1人だけが落ちて二浪することになっていた。
深夜になり、“二抜け”で、やることがなくなると私は外へ出た。
夜空を見上げると無数の星が瞬いていた。それを見ながら私は「明日の今ごろは、ついに東京か」と、仙台最後の日の星空を見ながら、感慨に浸っていた記憶がある。
寮の部屋で荷物をほどき、所定の場所に置いた私は、下段のベッドに横になった。やっと自由な新しい生活が始まる、というワクワク感が体中を駆け巡っていた。
それから外に出て、近くを散策しながら、地下鉄の駅のほうまで歩き、東京では有名な「増田屋」という蕎麦屋に入り、夕飯を食べた。
3月30日になると、今でも、そこから始まる大学生活に期待で胸が一杯だったあの時の自分を懐かしく思い出す───。

私は東京に行くと“自分探しの旅”をするのが好きで、その寮とか、そこを出て一人暮らしを始めた下落合のアパートとか、学生時代や仕事で行った思い出の場所をよく訪れる。
私の青春の思い出の場所ともいうべき、青山寮もだいぶ前に取り壊され、マンションのようなものになってしまったが───。
イメージ 7この場所に青山寮があった。寮自体は20年近く前に閉鎖になったのだが、国の所有物だったのと地域再開発計画の影響で、その後どういう風にするのか、かなり揉めたらしい。 
イメージ 84年前に訪れたときは、こう書かれており、8階建てのマンションが建つのだろうと思っていた。
 
イメージ 9一昨年行くと、何故か3階建ての結婚式場を建てることになっていた。近くの住民からの反対運動でもあったのだろう。
 
イメージ 10 反対側から見ると、こんな建物が建設中で、これは6階建て。どうも高層マンションだけではなく、様々な複合施設になるようだ。今度行く機会があったら、また見て来ようと思う。