仙台発名古屋行きフェリー じいさんは見送ってくれなかった。

仙台発名古屋行きフェリーに乗り、名古屋に行って来た。
しぼったばかりの~ 夕陽の~赤が~
水平線から~ もれ~て~いる~
苫小牧発~ 仙台行きフェリー~
あのじいさんときたら~ わざわざ見送ってくれたよ~
と、「落陽」という曲で吉田拓郎が唄ったのは昭和48年(1973年)12月のこと。
私が高校1年の冬である。
“仙台”という歌詞がメジャーな曲に出てくることは滅多にないので、印象に残った。
この逆航路の船旅で“仙台発~ 苫小牧行きフェリー~”に乗ったのは昭和51年(1976年)3月。
高校卒業直前、受験に失敗した野球部の仲間4人で「浪人確定お祝い記念旅行」(笑)以来の船旅で、ちょうど40年振りだ。
何のことはない、同学年の野球部全員が浪人したのである。
当時は現在と違い、浪人は当たり前だった。
現役合格に執着するよりも、浪人しても良い大学に入りたいという人間が多かった。
野球部員が4人?? ずいぶん少ないと思われる方も多いだろう。
1学年3クラスで140人にも満たないので、そんなものだ。
とは言っても、入学時には10人近くいた。
途中厳しい練習について行けず(笑)、残ったのが4人。
浪人といっても、悲壮感などまるでない。
周りがみんな浪人しているのだから、気楽なものである。
野球部を途中で退部した人間とも仲が良く、彼らとはその後も友人関係は続いた。“仙台最後の日”に徹夜麻雀をやったメンバーには彼らも含まれている。

あのとき5人と書いたが、あとで思い返すと6人だった。
4人が受かり、一人がもう1年(実際は2年)浪人し、さらにもう1人。結果的に二浪“以上”したのだろうか? と消息不明になった友達がいた。
彼とはその後なかなか連絡が取れなかった。
私が東京で社会人になる直前、仙台の母親から突然電話が来た。
今は知らないが、当時は国立大学に合格した宮城県の高校出身者は、河北新報に名前(と出身高?)が掲載された。
それを見た母親が電話を掛けてきたのである。
「S君て、あんたの友達じゃない?」
「そうだけど」
Sというのはとても珍しい苗字なので、母親も覚えていたらしい。
琉球大学の医学部の合格者に名前が載ってるんだけど」
「えー、うっそー。 下の名前は??」
「SHU」
「えっ、まじで?? じゃああいつだ!!」
私は一浪し、大学にも長く在籍していたので、計算すると彼は七浪したことになる。
七浪ですよ、七浪!! 小学校より長い(笑)。
普通の人間には、なかなかできることではない。
途中で神経が参ってしまうはずだ。
同期の仲間は全員が大学を卒業し、すでに社会人になっている。
その7年間、ひたすら受験勉強を続けたのである。
それを乗り越えて悲願の国立大学医学部合格。しかも沖縄である。
凄いやつだ、と感服した。
私の高校には何故か医者の息子が多かった。
3~4人に1人は医者の跡継ぎだった。

彼らは家を継ぐため、医学部に進学することが義務付けられている。
ご存知のように医学部は理数系の中でも最難関学部である。
ところが───。
このまま、この話を書き続けると、また脱線してしまう。というより船が転覆する。
これを書くと、名古屋港にフェリーが着くのに1カ月かかる(笑)。
というわけで、この話はまた別の機会に。
とりあえずS君、もしこれを読むようなことがあれば、連絡待っています。<(_ _)>
で、無理矢理話を戻します。
そのとき以来の40年振りの船旅。
このコミュニテイでブログを書かれている方の情報を見て、名古屋まで往復で9800円という安さに飛びついてしまった。
それでも40年前の“ごろ寝”と違ってS寝台。
期待に胸を膨らませていた。
出港当日の仙台は雨だったが、翌日10時半に名古屋に着けば間違いなく雨が上がっているはず。モーゼも唸る“究極の晴れ男”の私が行くのに、雨など降るわけがない。
ネット中毒者の私にとって船内でWiFiが使えるというのも良い。
仙台駅から仙石線中野栄駅まで行き、そこからバスに乗る。
仙台駅からバスに乗る手もあるのだが、それだと160円高い。
そんなムダ金があれば、少しでも美味い食事に回す。
それが私の信条である。
朝、仙台駅で、行き先が分からず困っていた外国人二人組を見かけた。
駅員に訊ねても分からないらしく、「一日一善」を心掛けている私(笑)が、“Can I help you?” と間に入った。
困っている人を見ると、つい助けたくなる性分なのだ。
center とcentralの発音が似ているので、駅員は「国際センター」のことかと思い、それを教えようとしていたらしい。
再度訊ねると「何とかセンター(Center)」と言っているのではなく、「Central Exit(中央出口)」と言っているのが聞き取れた。
仙台駅に中央出口などあるのか?(あったらごめんなさい)
東口と西口しかないと信じている私は、(英語で書くと面倒だし、読んでいる人も読みづらいので日本語で書きます)「東口か西口しかないと思う。メインは西口なので、そちらの出口じゃないか」と西口の中央出入り口(?)を指さした。
彼らは「ありがとう(もちろん英語で(笑))」と言って、そちらに向かった。私はまだ時間に余裕があったので、大丈夫かなと心配しながら、彼らを見ていた。
どうも違うらしい。
確かにそこには「西口」と書かれているのだから。
そこで私は再び彼らに近づき、確認しようとした。
そのとき若い日本人が走って来て、
「ようやく見つかった。良かった(もちろん英語で(笑))」
というようなことを言って彼らに笑顔を見せた。
待ち合わせ場所を「中央出口」(おそらく新幹線の)と指定していたのではないだろうか。
彼らは私を振り返り、再度「とてもありがとう(もちろん英語で))」と言った。
もう私は満足である。
こんなつまらないことでも、仙台の印象が良くなり、日本人は親切だなあ、と思ってくれれば充分だ。
人に施した親切は、いつかは自分に帰って来る。
そして、実際にそういうことを何度か経験している。
国内に限らず、海外でも。
別にそれを期待して行動しているわけではないけれど。
そんなこともあり、朝から気分が良く、船旅も期待した。
12時50分出港の1時間前に港に着く。
40年振りに見たフェリー乗り場は、こんなものかという建物だった。
40年前の高校時代の記憶など遥か忘却の彼方である。
1時間前から乗船できるので、すぐに乗り込む。
思っていた以上に豪華な船だった。
※結局、書き出すと派生した内容についても書きたくなるので、常に脱線する。お陰でこれも、乗船しただけでまだ何も書いていないのに“続く”とならざるを得ない。私の悪い癖だ。でも、なるべく早く続きを書くようにします。しばしお待ちを。<(_ _)>
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