師走の京都───40年振りの再会(フィナーレ)

重い腰を上げ、ぼくは「神戸ルミナリエ」へ向かった。
どんなに疲れていても、これだけは見たかったのだ。しかもその日、12月13日は最終日である。募金がなかなか集まらなかったり、地元商店街から反対があったりして、運営が厳しくなったため、今年はわずか10日間だけの開催らしい。

神戸ルミナリエ』は、阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂の意を込めるとともに、都市の復興・再生への夢と希望を託し、大震災の起こった1995年の12月に初めて開催した。
以来、神戸ルミナリエは震災の記憶を語り継ぎ、都市と市民の「希望」を象徴する行事として、毎年開催されている。
註:「神戸ルミナリエ」HPより引用

1995年と言えば、ぼくが初めてパソコンを買った年だ。
あの年は1月に「阪神・淡路大震災」、3月には「地下鉄サリン事件があり、とりわけ印象に残っている年でもある。

4月の日曜日にパソコンを買いに新宿に行く予定だったのだが、サリン事件がまた起こるかもしれない。次は新宿らしい」という、まことしやかな噂が東京都内では囁かれていた。それで、パソコンを買いに行くのを二週間ほど先延ばしした記憶がある。

その噂はすぐに収束したのだが、それでも新宿に行くのは躊躇いがあったので、結局秋葉原に行った。そこから、ぼくのパソコン人生が始まったのだ。

1995年という年を思い浮かべるとき、ぼくはこの二つの事件をけして忘れることはない。
早朝発生した関西での大地震。後に「阪神・淡路大震災」と名付けられたその地震では、火災により多くの人たちが犠牲になった。それから16年後、東日本大震災が起こり、こちらでは津波により、多くの犠牲者が出た。ともに、絶対に風化させてはいけない歴史なのだ。

その鎮魂の意味も込めた光の祭典「神戸ルミナリエ」。
「なんば」の駅で、駅員に「ルミナリエ」への行き方を尋ねた。
彼は”一度「梅田」駅に行って、そこからの始発に乗り、「三ノ宮」まで行くのが楽だろう”と言ったように思う。

「梅田」から「三ノ宮」までは約30分。
みんな「ルミナリエ」を観に行くのだろう。電車はすでに混んでいた。30分立ちっぱなしで、ようやく「三ノ宮」駅に着いた。

ぼくは、みんなの後をついて行けば、「ルミナリエ」に到着するだろうと思い、改札を出てから、大多数の人が歩いて行く方向に向かった。

けれど、そこからが長かった。普通に歩けば10分程度のはずなのに、交通規制が敷かれていて、歩行者も車道を一方通行の流れでぐるぐる回りながら歩かねばならず、結局、会場に着くまで三ノ宮駅から1時間以上もかかることになった。

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ここに来た時、一瞬ぼくは「ルミナリエ」に着いたんだと思った(笑)。

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神戸らしい洒落た建物で、何だろう? と思ったら。

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神戸セントモルガン教会だった。さぞ歴史のある建物なのだろう。
(調べたら、中のステンドグラスが美しく、結婚式場として人気の教会らしい)

右に左にとジグザグ歩くので、「ルミナリエ」会場らしきものは、すぐ近くに見えるのだけれど、なかなかたどり着かない。

それでもようやく、会場入り口に着いた。
足はすでに棒のようになっていたが、その美しさはそれを忘れさせた。

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ルミナリエの門と言うのだろうか。

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光の回廊を歩く

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歩道側の回廊

ぼくは疲れ果てていたので、この回廊が続くだけなら途中で抜けようと思った。
そこで、交通規制をしている係員に尋ねた。
「『ルミナリエというのは、これが続いて終わりなのですか?」
彼は「いや、ここは門を入ったばかりで、このずっと先が会場です」と、ぼくの疲れをさらに助長させるような返事をした。

まだ続くのか・・・・・。仕方なくぼくは再び歩き始めた。
でも、そこで帰らなくて良かったと思う。最終会場の本物の「ルミナリエ」は、さらにきらびやかで荘厳な美しさだった。

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これが「ルミナリエ」会場。
HPを見て知ったのだが、門も回廊も、この会場も毎年デザインが変わるのだ。

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この真ん中に頭だけ見えるところが重要な場所らしいが、この時は知らなかった。

鎮魂の思いとみんなの幸せを願い、ぼくは祈った。
そして、もし可能ならば、来年も来られますようにと募金をした。

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帰りはすでに交通規制も解かれており、駅までは10分ほどで着いた。

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三ノ宮駅前(JR側)

駅を降りてすぐ、会場に向かう途中で美味しそうな洋食屋を見かけたので、せっかく神戸に来たのだからと、夕食をそこにしようと思っていた。

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その店はすぐに見つかった。ドイツビールと食事を注文した。
一息ついた。料理もビールも旨かった。店の女性も綺麗だった。

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そこからホテルにすぐに帰れば良かったのだが、一息ついたことで疲労も回復したぼくは、また気が大きくなってしまった。
道頓堀で、Iさんお薦めの「二度付け禁止の串カツ」をまだ食べていないことを思い出したのだ(笑)。

いずれにせよホテルに行くには「なんば」で乗り換えなければならない。
すなわち、道頓堀は帰り道なのである。自分でも脳天気さに呆れる。腹が空いているわけでもないのに。「なんば」で降りたぼくは、再び道頓堀へ向かった。結局、この日も2万歩以上は優に歩いたと思う。

夜の道頓堀は昼とはまた違った活気にあふれていた。
夕食時だ。みんなくいだおれようと必死なのだ。

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有名な「かに道楽」の動くかに。

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美味しいふぐが安く食べられると評判な「づぼらや

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何故か異常なほどの行列の「金龍ラーメン」。
一瞬食べたいと思ったが、このときはすでに満腹で不可能だった。

串カツは・・・・・。はっきり言ってたいしたことなかった。
と言っても、腹が一杯なのに無理して食べたのでそう感じただけか。

ホテルには予定通り10時ごろ着いた。
翌日は4時半起きなので、シャワーを浴びてすぐに寝れば良いのに、また余計な文章書きなどを始めて、寝たのは1時過ぎだった。こうなると、もう病気である(笑)。

5時半にホテルを出て7時10分発8時25分仙台着のピーチに乗った。

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飛行機が遅れさえしなければ、充分に会社には間に合う。
飛行機は定刻通りに着いた。けれど、席が後ろの方だったので、降りるのに手間取った。ぼくは、飛行機を降りてから仙台空港駅のホームまで全速力で走った。

前日までの二日間は2万歩以上の歩きどおし。
この日は全速力での疾走。まったくハードなスケジュールだ。それでも、走ったおかげで何とか発車3分前に空港駅のホームに着いた。

ようやく長い旅が終わった。(完)

T君、いろいろとありがとう。それと的確なアドバイスをくれたIさんにも感謝。

今年1年間、この駄文をお読みいただいた方に感謝申し上げます。
良いお年をお迎えください。<(_ _)>

はあ、何とか間に合った・・・・・・。

追記:昭和48年台原中学校の卒業生で、これをご覧になった方は是非連絡お待ちしております。