あの日の東京───2011年3月11日

3時の休憩時間に入る直前、突然それは起こった。
9階建てビルの3階にいる僕らのフロアが揺れ出した。
みんなが周りや天井に視線を向けた。
「けっこう大きい地震ですね」
僕の斜め向かいに座っている女性が言葉を発した。

揺れは一気に激しさを増した。
「みんな、机の下に隠れて!!」
誰かが言った。
そのフロアにいた50人近い社員がそれに従い、机の下に身を伏せた。
揺れはさらに激しさを増し、数分間続いた。
女性社員の悲鳴が聞こえた。

揺れが収まったあと、毎年の避難訓練で指導されている通りの手順で、僕らは外階段を伝って降り、1階玄関前のロビーに集まる。

フロアごとの班別に点呼が行われ、幸い怪我人は誰もいないようだった。
「すごかったねえ」
「怖かったあ」
そんな言葉があちらこちらで飛び交っていた。

棚やロッカーの上から落ちた様々なものを片付け、散らかった机の上などを整理して、僕らは通常業務に戻った。

3階フロアにテレビはない。
机に向かった僕らはすぐにネットで状況を確認した。

震源地は三陸沖。
東北地方の太平洋側、特に岩手、宮城、福島などは軒並み震度6などという表示が出ていた。
携帯で仙台の実家を呼び出した。
繋がるわけもなかった。

けれど、仙台はもともと地盤が固いので大丈夫だろうと思った。

いつも通りに仕事を続けていると、“都内の交通網が殆どストップした”という社内アナウンスが流れた。
社員全員に「すぐに帰宅しても構わない」という指示が出された。

でも、交通機関が動いていないのにどうすれば帰れるのだろう?

それでも、女性を中心に何人かの社員が帰り支度を始めた。
その後の情報でも、JR、私鉄、地下鉄、全て運行ストップ。
再開の目途はまだ立たないとのことだった。

ならば焦って帰っても仕方がない、動き出すまで待とう。
結局、僕は通常業務をしながら定時まで会社に居残った。
その間、ネットのニュースは時折見たけれど。

僕は毎日地下鉄一本だけで会社に通う。
乗っている時間も僅か15分。ドアツードアで家を出てから会社まで30分もかからない。
今日はその地下鉄がストップし、復旧時刻は全く予想もつかないという。
誰かの言葉が耳に飛び込んできた。
「動いてるのは都電と都バスだけだって」

ピン! と来た。
会社の前の道路を都バスが走っている。それに乗ればJRの王子駅まで行ける。
王子の駅には都電もある。その都電に乗って終点の早稲田まで行く。早稲田まで行けば、たしか家の近くまで都バスが走っている。何分間隔で走っているかは分からないが、バスがすぐ来なくても、そこまで行けば30分ほど歩くだけで家に辿り着く。
その旨を家に電話して告げた。

会社を出るとすぐにバスがやって来たので、それに飛び乗る。
特に道路が混んでいるというわけでもなく10分ほどで王子駅前に着いた。JRの改札辺りは人がごった返していたが、都電の停留所はそれほどでもない。歩いて都電の停留所に並ぶ。少し待たされたが、無事に最初に来た電車に乗ることができた。

都電もほぼ通常通りの運行時間で早稲田に着いた。途中の停留所で満員になり、「すぐに来ますので、次の電車にお乗りください」というアナウンスは流れたが───。

都電を降りた後、バスの停留所を探した。50mも歩くとすぐに見つかった。
時刻表を覗きこんだ。概ね10分程度の間隔で運行しているようだ。
もう大丈夫だ、無事に家へ帰れる。
一安心した僕は、急に空腹を覚えたので傍のラーメン屋に入った。

※ラーメン屋さんにはテレビがあったはずだと思う。
このとき、津波の映像はまだ流れていなかったのだろうか?
思いのほか早く帰宅できる安堵感で、のんびりとラーメンを食べていた記憶がある。

空腹を満たした僕は停留所に向かい、やって来たバスに乗った。
家に着いた。
「よく早く帰って来れたね。電車が止まって都内の駅は滅茶苦茶で、みんな帰れないらしいよ」
妻はそう言って、さらに続けた。
「それより、凄いことになってるよ。大丈夫なの?」

リビングのテレビを見た。
そこから流れる映像で、この世のものとは思えない故郷の禍々しい光景を初めて見た。

後に「東日本大震災」と名付けられる大惨事の“始まり”だった。

1か月後の4月11日。
靖国神社からほど近い千鳥ヶ淵の桜は何事もなかったように咲いた───。

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あらためて、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。